想い出のひとつひとつに「そのときにつながる音楽」があるのはぼくだけでしょうか?
その曲を聴くと突然、そのシーンがよみがえります。ここではぼくの「想い出の曲」
「想い出のアーティスト」についてお話ししましょう。

                             清里カフェ・店主 むっしゅ☆☆☆






 2003.6.11 

シェルブールの雨傘 / ミシェル・ルグラン

梅雨の季節になりました。傘といえば思い出すのが天才ミシェル・ルグランのこの曲です。全編歌で綴られた台詞。最初は違和感がありますが、そんなものはすぐに忘れてストーリーに引き込まれてしまいます。フランス語の美しさ、音楽との相性など目を見張るものがありました。

映画はフランスの小さな港町・シェルブールで展開する20歳のギィと16歳のジュヌヴィエーヴの悲しい恋物語。カトリーヌ・ドヌーヴが可憐で美しい。後の「昼顔」で演じる妖しい色香はまだそこには感じられません。アルジェリア戦争によって引き裂かれた恋人たち。戦争はいつの時代も悲惨です。

最も切ないシーンはギィが出征していく駅の別れのシーンでした。ギィの「モーナムール」ジュヌヴィエーヴの「ジュテーム、ジュテーム」と繰り返し繰り返し歌うシーンがとても印象的で、そこに主題曲がかぶさってきてもう、いっしょに泣きたくなるほど切なく悲しい思いがあふれてしまいます。

最も記憶に残るシーンは最後の場面。
まだ二人が恋人時代に「子どもができたら名前はフランソワにしよう」「将来はガソリンスタンドをやろう」と他愛もない話をしますが、これがエンディングの伏線です。お互いの消息がわからないまま、それぞれの家庭に子どもが生まれました。(ジュヌヴィエーヴの娘は出征前にできたギィの子)

4年半後、雪のクリスマスの夕暮れ。
娘を連れてひさしぶりにシェルブールを訪れ、ギィのガソリンスタンドへ偶然立ち寄るジュヌヴィエーヴ。はっとして気が付くギィ。一瞬の沈黙、見つめ合う二人。ぎこちない会話が続き、ギィは「もう行ったほうがいい」と告げる。立ち去る車には娘の「フランソワーズ」、入れ違いに帰ってきたギィの妻と息子の「フランソワ」。忘れられない「恋の思い出」とささやかな幸せだが「大切な現実」が交差する。そして雪が降り続く中を主題曲が流れ、まさに切ない切ないエンディング。(ハッピーエンドではないのです!)

この映画で初めてフランス語って「女性と男性では名前が違うんだ!」ということを知ったのでした。(笑い)

シェルブールの雨傘は、ぼくが青春時代に出会った忘れられない映画音楽の筆頭です。高校時代に見た数少ない映画は、必ずどの年にどの映画館で見たかを覚えているのですが、この映画だけはなぜか記憶にありません。映画館を出た後もそれほど映画に浸っていたのでしょう。楽器店に寄りサウンドトラックのアルバムを注文して帰ったのも初めてのことです。あのアルバムはいったいどこへ行ってしまったのでしょう?今DVDで買い直そうかと悩んでいるところです。
 2003.6.11 

廃墟の鳩 / ザ・タイガース

もう1年ほど前になりますが、テレビを見ていたら突然流れたCM「wowwow夏のキャンペーンソング」は喜多郎のプロデュースによる當山奈央のカヴァー「廃墟の鳩」でした。すっかり忘れていたこの歌をじつにさわやかに歌い上げ、30数年前のかつての名曲を再認識させてくれたのです。

オリジナルはもちろんザ・タイガースのアルバム「ヒューマン・ルネッサンス」(1968年)からシングルカットされた曲です。加橋かつみの透き通った高音と岸辺一徳(当時は修三)の低音は、沢田研二の甘い声質とは対照的でタイガースのコーラスの幅を厚いものにして支えていました。もっといえば加橋あってのタイガースであったと言えるかもしれません。その証拠に加橋が抜けたタイガースは音楽性を失い、みるみる色あせてしまいました。

この「ヒューマン・ルネッサンス」というアルバムは、この時代のヒットメーカー「橋本淳、筒美京平コンビ」をあえてはずし、まだ若手だった山上路夫、村井邦彦を起用したという意欲的で画期的なアルバムでした。まさに快挙です。今聞いても古さを感じさせることなく、とても新鮮に聞こえます。

この曲が発売された68年12月はまだ高校2年でしたが、はっきり覚えています。個人的には当時、タイガースというバンドは好きではなくレコードを買ったことはありませんでした。昨年ミュージックショップをのぞいている時に、偶然CD化されたアルバムを見つけ衝動買いしたのです。今さらながらにこのアルバムのすばらしさを実感。当時、この企画をした人々に拍手を送りたい!シングルカットされた「廃墟の鳩/青い鳥」はタイガースのベストシングルだと思っています。森本太郎の作曲した「青い鳥」もなかなかの名曲ですが、サビの部分の「いかないで〜」が「シーシーシー」に聞こえてしまうのはちょっとご愛敬ですね。(笑い)
 2003.2.6 

ブルースター / ベンチャーズ

ベンチャーズの演奏で知られる「ブルースター」は1954年、米映画音楽の巨匠ビクター・ヤングによってTV番組の主題歌として作曲されたものです。つまりその頃風に言えば「リバイバルソング」であったわけです。当時、彼らの演奏する曲はほとんどがオリジナルではなく、アメリカでは多くの人にすでになじみのある曲ばかりを「ベンチャーズ風にアレンジ」して演奏していたのです。「キャラバン」「ウォーク・ドント・ラン」「パイプライン」「十番街の殺人」すべてがそうでした。ぼくの大好きな「十番街の殺人」にいたっては1930年代の作品で、なんと!戦前の曲。(絶句!)

さて、それではこの「ブルースター」はベンチャーズの代表的な曲であるかというと「?」です。というのも、彼らのベストアルバムに入っていないことが多く、1枚だけなら探すのにひと苦労します。

スライドギター(ボトルネック奏法)で演奏されるこの曲は、当時の大音量、リズミカルという彼らの演奏スタイルの中にあって特異な存在でした。しっとりした雰囲気が日本人好みだったのかもしれませんね。


この曲の想い出というと、なんといっても1967年3月「中学の卒業式」のこと。「エレキは非行の温床」などと言われていた時代ですから、こっそり練習していたのでしょうが同級生のバンドが謝恩会で見事な演奏を聴かせてくれたのです。まさに彼らはヒーローでした。この時から友人のShimac先生は気になる存在に。彼らの演奏は本当に素晴らしかった!12歳の少年達がこんなに上手に弾けるという感動で会場は大興奮に包まれ、ひどく熱かったことだけは覚えていますが、それ以外のことはなぜか記憶からすっぽり抜け落ちています。

その日のプログラムの中に「ブルースター」が含まれていてとても印象的でしたが、ぼくはその頃まだギターをさわったこともなく、羨望のまなざしで彼らを眺めていました。この時、「いつかギターを弾きたい」という思いが種撒かれていたのかもしれません。

さて、小さな体育館には全校生徒と父兄を収容することはできず、在校生は代表をのぞいて当日はお休み。その卒業式と謝恩会の準備の間、教室に戻る時に親しくしていた1年生の女の子を見かけました。わざわざお別れを言いに来てくれたそうで、プレゼントをもらったような気がします。当時はお返しに第2ボタンをあげるなどという習慣もなく、二言三言お礼を言っただけで終わってしまいました。あの頃のぼくはまだまだ精神的に幼くて、今振り返ってみればそのこの複雑な気持ちをわかってあげることもできず、悪いことをしたなぁ・・・と思っています。
しかし、それもまた想い出の一コマとして、まるで1枚の写真のようにこころに残っているのです。


【注】カタカナ表記は発音に忠実であれば「ヴェンチャーズ」とすべきですが、当時の表記に基づき「ベンチャーズ」としています。
 2003.1.13 

ほおずき / グレープ

実は1975年に発売された当時のこの曲にほとんど覚えがありません。グレープが73年「雪の朝」でデビューし、ブレイクしたのが翌年の「精霊流し」。その翌年の作品ではあるのですが、同じ年に発売された「無縁坂」ほどのインパクトはありませんでした。ですからある情景に出会うことがなければ、ぼくのこころにこれほど残ることはなかったでしょう。

81年夏、当時公称200万部といわれた「no*no」の創刊10周年記念読者ご招待イベントに、ぼくはスタッフとして参加していました。ウェルカムパーティから始まり、連日の手芸教室。そして緊張の連続。まだ若い20代最後の年とはいえ、慣れないことで心身共に疲れ果てていました。それは最後の最後、「さよならパーティ」での出来事です。

各グループ対抗の出し物が終わり、パーティはエンディングに近づいていました。主催者側の代表としてフォトグラファーのY氏が紹介され、フォークギターを持って登場。1曲目を盛り上げて終わり、次はもうお別れの曲「ほおずき」。静かに曲は始まりました。そして曲の半ばにかかった頃、あちこちから「しくしく、しくしく・・・」という声が・・・・・

それは参加していた150人近い読者たちの闇の中からの泣き声でした。もちろん明日の朝でみんなとお別れというシュチエーションとか微妙な年齢とかあるのですが、150人のひとをギター1本と歌で泣かすというのはただ者ではありません。後で聞いたのですがY氏はYAMAHAのポプコン関西地区決勝で敗れ、ミュージシャンの道をあきらめてフォトグラファーになったとのこと。その決勝の優勝者は谷村新司だったとか。Y氏とはそれ以来親しくお付き合いさせていただいていますが、この数年お互いになかなか時間がとれなくて一緒に飲む機会がないのが残念です。

この曲を聴くとキャンプファイヤーの炎の向こうにあるステージで歌っているY氏の姿と、しくしく・・・という女の子達のすすり泣きが甦ってきます。
 2002.12.26 

白馬のルンナ/ 内藤洋子

突然想い出がよみがえったので正月が近いのに夏の曲をご紹介します。(苦笑)

「白馬のルンナ」は当時のアイドル女優だった内藤洋子のヒット曲です。お世辞にも上手とは言えない歌ですが、その可憐な瞳にみつめられると何も言えなくなる・・・そういう雰囲気を持った少女でした。(歌も演技も下手だけどオーラはすごかった)その数年後もオールナイトニッポンの個人的趣味で取り上げられ多くの若者が毎晩聞いていたはずです。余談ですが、当時のパーソナリティ斉藤安弘氏の相棒、亀淵氏は今やニッポン放送の社長ですから時の流れを感じますね。

1967.7 佐賀東宝でぼくは松山善三監督の「その人は昔」という作品を見ました。舟木一夫・内藤洋子主演のミュージカル仕立ての映画でした。若い二人が出会う美しい北海道の風景、その対極にある東京の海。次第に都会にむしばまれていく若い二人。悲しいストーリーを支えていたのが内藤洋子が歌う「白馬のルンナ」と「雨の日には」でした。ですから「白馬のルンナ」を初めて聞いたのはこの日ということになります。プロローグとエピローグに歌われる舟木一夫の「その人は昔」よりも、全編を通して流れるこの曲がむしろ主題歌というイメージでした。(今でいう、いわゆる”ブリッジ”というやつです)

この映画が発表されてしばらくして「白馬のルンナ」はシングルカットされましたが、映画の中でとても印象的だったのでヒットは当然予測できました。歌を聴くと映画のシーンが今でも甦ります。それまでさほど魅力を感じていなかった内藤洋子を、急に注目し始めたのは「この作品」がきっかけです。その後の作品を立て続けに見に行ったのもこの流れです。当時はレコード化されませんでしたが、「年ごろ」では共演したブルー・コメッツと「甘いお話」を一緒に歌っていました。(ブルーコメッツのBOX版(10枚組CD)には収蔵されています)
衛星放送(CS)ではかなりの頻度でそれぞれ放送されているようなので、機会があればもう一度見てみたいものです。

一連の青春映画のおかげで恋愛経験貧困な割には作詞する時にかなりイメージをふくらますことができました。当時高校1年だったぼくにとっては東宝映画は青春の原点です。(笑い)
 2002.12.2 

合奏協奏曲op6 No8 (クリスマスコンチェルト) / コレルリ

今年もいつのまにか12月、クリスマスソングが流れる季節になりました。この時期になると思い出すのが、コレルリのクリスマス・コンチェルトです。緻密で均斉のある作品を生み出したコレルリの作品6の中でも特に8番は「クリスマス・コンチェルト」としてこの季節には欠かせない音楽です。

1973.12.5 渋谷公会堂でぼくは緊張しながらステージの袖に立っていました。その日は1年の総決算「定期演奏会」で、クラシックステージに立つことになっていたのです。大学3年でクラブの演出役員をやっていた関係上、出演できる数少ないステージでしたから悔いのない演奏をしようと思っていましたが、あの広いステージに演奏者は20人足らず。音をはずしでもしようなら頭の中が真っ白になってしまいそうです。プレッシャーに耐えながらステージを終えた時には全身から力が抜けてしまいそうでした。(苦笑)今でもこの曲を聴くと懐かしさと冷や汗がよみがえってきます。これもまた青春の思い出。
 2002.6.10 

亜麻色の髪の乙女 / ヴィレッジ・シンガーズ

今年の4月、テレビCMを見ていて、流れてきた曲に新鮮な感動を覚えました。ウクレレ1本の伴奏でほとんどアカペラのような亜麻色の髪の乙女です。島谷ひとみが歌うこのカヴァー曲はCMに使用された部分は実に秀逸なアレンジで、この曲の本歌を知っている人間にはなつかしい想い出をよみがえらせてくれたことでしょう。これはCDが出たらぜひ購入しようと思いました。、しかし、プロモーションビデオを見てガッカリ。後半は急に必要以上にアップテンポになりほとんどダンスミュージック。これでは詩の持つ意味を台無しにしてしまいます。乙女が優雅に丘を駆け下りるところが100mを全力で疾走するような印象になってしまいました。モチロン購入中止。前半の出来が素晴らしかっただけに惜しまれます。とはいえ、評判はいいようでランキング上位に位置しているそうですね。と、書いていたらCMバージョンも発売されるようです。これは買います。(^^)v

さて、当時のヒットメーカー「橋本淳とすぎやまこういち」によるヴィレッジシンガーズの本歌は1968.2月発売でした。作詞の橋本淳はタイトルをクラシック音楽や洋画から持ってくるのがお得意でこの曲もドビュッシーの名曲からヒントを得たものでしょう。

当時高校生だったぼくの一番のお気に入りだった曲で、これはうれしいことに友人のお姉さんにシングル盤をもらいました。今でも我が家の屋根裏に保存されているはずです。この曲を含んだ松竹製作の青春歌謡映画は彼らの歌を主題に3本あります。すべてのヒロインは当時のアイドル女優「尾崎奈々」でそのうち2本までは映画館で見ました。そして今もビデオを持っています。一番出来がいいのは「虹の中のレモン」。これは青春の想い出、ぼくの貴重な宝です。同時代を生きた友人と見るのが楽しそうですが、とりあえず明日あたり虫干しに見てみましょう。(笑い)
 2002.4.21 

トッカータとフーガ ニ短調 BWV.565 / カール・リヒター

バッハファンにとって教会でのオルガンコンサートは一度は行ってみたいものの一つでしょう。ぼくもまたJ.S.バッハのオルガン作品の中で、もっとも有名な作品であるこの曲をぜひ一度聞いてみたいと思っていました。奔放で大胆な即興性にあふれたこの作品は、バッハが巨匠ブクステフーデの作風に触れ、その感動の中で一気に書き上げたものだといわれます。たぶん、一度聴くと忘れられない作品のひとつで、この曲でオルガン曲に目覚めた人も多いことでしょう。


その昔、大学の礼拝堂で休み時間を過ごしていると、時々誰かがこの曲を練習していました。地の底から地響きをたて湧いてくるようなこの曲は不思議な感動を与えてくれるのでした。

当時「オルガン奏者の第一人者はカール・リヒター」という時代が終わりつつありましたが、ぼくにとってリヒターのオルガンを教会で聴くというのは夢のようなことだったのです。

リヒターの演奏を聴けたのは1979.2.23、東京カテドラル聖マリア大聖堂でした。残念ながら、この日のプログラムにトッカータとフーガ ニ短調はありませんでした。日本でのコンサートツァー最終日に当たるこの日、リヒターは体調が悪かったのでしょうか?演奏に冴えが見られず、とても不機嫌そうに見えました。予定のプログラムを終えると聴衆の間の花道を足早に去って行ったきり、アンコールに応えることはありませんでした。その後、突然亡くなってしまったので、リヒターのいい状態の演奏を聴くことはできなくなってしまいました。
現在もCDではなく当時のレコードを聴きながらこれを書いています。
 2001.11.26 

神田川 / かぐや姫

神田川がヒットした年(1973年)ぼくは大学の3年でした。当時住んでいた田園調布の三畳間にはなつかしい思い出がいっぱいですが、歌の中と違って近所に誰も友人がいなくて、奥沢の銭湯に行くときもいつもひとりでした。仕送りやバイト代もほとんど酒代に消えて、ようやく手に入れたステレオは弟のお古。それでも当時流行ったFMのエアチェック(死語?)で神田川を聴けるようになりました。ほんのささやかな恋の想い出と共に・・・・

神田川はイントロのヴァイオリンがいきなり全体の哀しい流れを物語り、当時の大学生には条件反射的にその頃の生活がよみがえります。歌が始まるときにはすでに涙がにじんでいるという仕掛けです。こんな泣かせる反則技的アレンジを担当したのが、ぼくに「コルトレーン」を教えてくれたS君の義兄木田高介氏でした。(”あの石川鷹彦氏”は親友とのこと・・・)木田さんはあの伝説のバンド「ジャックス」のメンバーであり、後にナターシャセブンにも参加しマルチプレーヤーとして活躍しながら数々のアレンジもこなすという有能なミュージシャンでした。ちょっとアルバムを見るだけで、ドラム、キーボード、フルート、サックス、ギター、と書いてあります。さすが芸大!でも、たぶん芸大のワクの中に収まらない人だったのでしょう。

1980年5月、ぼくは秋から始める新しい仕事の準備をしていました。そして19日の朝、広げた新聞から思いがけない記事が目に飛び込んできたのです。それはイルカのコンサートツァーの準備のために合宿中の木田さんが交通事故死という訃報でした。S君に連絡を取りお通夜の会場と時間を確認し、方南町のご自宅を訪ねました。会場に設営されたテントには憔悴しきった南こうせつやりりぃの姿も・・・。ぼくの前を吉田拓郎が歩いていました。
”新しい職場にナターシャのアルバム集を持って遊びに来る”という約束を果たさずに、木田さんは突然旅立ってしまいました。チャンスがあれば石川さんにも紹介していただこう・・・とか勝手なことを想像し、お会いできるのを楽しみにしていたぼくにとって愕然とするほどショックは大きかったのです。その後、こころの傷が癒えた木田さんの奥様とお嬢さんに我が家を訪れていただけたのは、それから13回目の夏のことでした。

今でも神田川を聴くと冬の寒かった銭湯と暑かった初夏のお通夜が突然よみがえります。
 2001.11.26 

ブルー・ロビン / ヴィレッジ・シンガーズ

寺本圭一作詞・石川鷹彦作曲によるこの曲はG.S.になる前、つまりフォーク・ロック時代(なつかしい言葉!)の初代ヴィレッジ・シンガーズのデビューシングルのB面(1966年)に収められていました。A面は「暗い砂浜」です。ちなみに当時在籍し、後のG.S.時代も
残っていたメンバーは小松、林の2人だけです。

ブルーロビンは当時のフォークソングの典型的なスローバラードで、ギターを買ったばかりの田舎の高校生にはピッタリの歌でした。そこで彼は後に創刊された新譜ジャーナルという歌本に楽譜をリクエストし、創刊2号の最後のページに掲載されたのです。もちろん彼とは高校生当時のぼくのことで、その出来事はなつかしい思い出です。ぼくのリクエストが掲載された新譜ジャーナルはいつの間にか実家の倉庫から処分されてなくなっていました。ずっと手元に置いておけばよかった・・・と、今でもとても残念に思います。
 2001.11.25 

リュート組曲 ホ短調 BWV.996 / ジュリアン・ブリーム

これはギター音楽のファンにとってはバッハの作品の中ではずせない曲の一つでしょう。J.S.バッハの作品の中で、ギターによって奏でられる作品として有名なブーレはこの組曲に納められている。全曲を弾きこなすにはかなりの技量を要するので手を出しやすい軽快なブーレだけが周辺の人間達に好まれたようです。たまたま友人がこの中のアルマンドを得意としていたので全曲を聴く機会に恵まれました。プレリュード、アルマンド、クーラント、サラバンド、ブーレ、ジーグ・・・と聴き比べていくとジーグも捨てがたいのですが、実はアルマンドが一番好きなことがわかりました。

ブーレはセゴビアもレコードを出しているので比較できますが音の厚みという点ではセゴビアに一歩譲るかもしれません。しかし、ブリームの演奏の手堅さにはなによりも安心感があります。当時人気を二分していたジョン・ウィリアムスの華やかさと対照的にブリームの渋さはその演奏にスペイン音楽よりもバッハの作品やリュートで奏でる宮廷音楽などをより多く選曲していた彼の音楽センスによるところが大きいのかもしれません。

ブリームの演奏を聴けたのは1985.11.28、新宿文化センターでした。その前年の夏交通事故を起こし、ギター演奏家としては致命的ともいえる右腕の骨折で一時は再起不能と言われていたブリームは日本のステージには右ヒジの角度を固定したまま現れて、何事もなかったかのようにすべての演奏を成し遂げてしまいました。手術後の懸命なリハビリ、そして数ヶ月後の演奏復帰という超人的な道のりを歩いてきたブリームはぼくの中に強烈な印象を残しています。
 2001.11.10 

マイ・フェイヴァリット・シングス / ジョン・コルトレーン

マイ・フェイヴァリット・シングスを初めて聞いたのは映画「サウンド・オブ・ミュージック」。ジュリー・アンドリュースの美しい声とスイスの美しい風景が目に焼き付いています。すぐ、サントラ盤を買いに行きました。幸運な出会いでした。それがさらに幸運を呼びます。

それから約10年後、ぼくはジャズを聴きたくなり、友人に「何か1曲オススメは?」と聞くと、「それならこれでしょう」と渡されたのがこのアルバムでした。(S君ありがとう!)なじみのあるメロディーがコルトレーンのソプラノサックスによって流れ、絶妙のバランスでマッコイ・タイナーのピアノと絡む。敷居が高い、むずかしいと思っていたジャズの世界はジョン・コルトレーンの手によってやすやすと扉を開いてくれたのでした。(なんたる幸運!)ぼくにとって「マイ・フェイヴァリット・シングス」は貴重なジャズとの出会いの曲です。

(この曲は関東に住んでいると、突然京都に行きたくなるかもしれません)(苦笑)

それ以降、「至上の愛」「ブルートレイン」などコルトレーンのアルバムを手に入れました。今でもほとんど毎晩聴きますが、いつも深夜なので2曲目の「エヴリタイム・ウィ・セイ・グッバイ」を聴くと条件反射的に眠くなります。ある日泊まった山中湖のペンションで朝食の時からこれが流れていて、また眠りたくなったのには参りました。(爆)
 2001.11.10 

砂に消えた涙 / ミーナ

1950年代や60年代は海外からの曲が同時進行で日本語でも歌われていました。特にイタリアの歌はサンレモ音楽祭で話題になった曲を中心に広く愛されました。このミーナの歌った「砂に消えた涙」もA面イタリア語,B面日本語という組み合わせです。

1965年初夏、生まれて初めてぼくは恋をしました。とはいえ、あまりに幼すぎて自分のこころを伝える術も知らずただ、きらきらひかる大きな瞳の少女を遠くから見ているばかり。当然そんなほのかな想いは彼女には届かぬまま、やがて小さな恋ははかなく終わって
しまいました。その頃、ラジオから盛んに流れていたのが、この「砂に消えた涙」です。

今振り返ればただの片想いかもしれませんが、それまでひとを好きになるということを知らなかった幼いぼくにとって画期的な出来事でした。それが翌年からの詩作や図書館での読書に没頭して行くきっかけとなりました。これはぼくにとって大切な初恋の想い出の曲です。
 2001.11.9 

オーボエ、ヴァイオリンのための二重協奏曲 ニ短調 BWV1060a
/ ヘルムート・ヴィンシャーマン指揮・ドイツ・バッハ・ゾリステン

30数年前、まだ高校を卒業したての頃でした。義兄の膨大なレコードコレクションからバッハの作品を探すのは意外と簡単でした。というのも当時はほとんどがモーツァルト、ベートーベンを中心にワーグナーまでロマン派以降の作品が多かったからです。

とりあえず、見つけた最初のLPに早速針を降ろしてみました。その瞬間、ぼくの中で電流が流れたような感覚が!ドイツ・バッハ・ゾリステンの演奏は、それまで聞いていたオーケストラの音色とは全く違うものだったのです。きびきびとして歯切れの良いオーボエ、交互に演奏される美しいヴァイオリンそれぞれが自己主張しながらも協調しあっている、まさに素晴らしい合奏のお手本!そして通奏低音を含めた相乗効果!この日は本当に強烈な印象が残りました。

あの日以来、バッハというとまず最初にこの曲が頭に流れてくるのです。そして、管楽器といえば「オーボエ」が一番好きというほど魅了されてしまいました。

さて、あこがれのドイツ・バッハ・ゾリステンの演奏を聴けたのは約20年後の1991.10.1。音響には定評のある白根桃源文化会館です。当時71歳だったヴィンシャーマンは円熟したいい演奏を聴かせてくれました。しかし痛恨事がひとつ。当日は全席自由だったので最前列に陣取りました。そして1曲目の1楽章が終わった瞬間、ざわざわと大勢の人の気配がし後ろのドアから人々が入場してきました。ステージ脇のドアからは係員がパイプ椅子を持ってきてステージと1列目の間に並べ始めました。あっという間にぼくの席は4列目になってしまったのでした。それを2楽章を演奏しようとしていた演奏者達は呆気にとられたようにステージから見ていました。いくら田舎の演奏会場とはいえ、こんな失礼な話はありません。席が足りないのなら演奏開始前に並べておくものだし、最大限譲歩しても3楽章が終わって演奏者が退席してからすべきものでしょう。この夜の出来事はいい演奏をしようとステージに上がった演奏者に対して、日本人として顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしました。あの出来事がなければもっといい演奏を聴けたかもしれません。痛恨でした。
 2001.11.5 

津軽じょんがら節 / 吉田兄弟

津軽じょんがら節は本当はこんなに明るい曲だったのだろうか?昔聴いた高橋竹山の津軽三味線は津軽の冬景色を思わせる重く哀しいものだった。吉田兄弟の奏でる調べは対照的に北国の真夏の海の輝きのようにまぶしく激しいそれでした。今まで持っていたじょんがら節のイメージを劇的に変えてくれた演奏。

兄の細心堅実、弟の大胆奔放。持ち味は違っているが見事な調和。時に大胆は多少のブレを見せるところがご愛敬。

今夜の韮崎市文化ホールはほぼ満席。客席からの大きな拍手に答えるかのような熱気あふれる演奏だった。吉田兄弟の掛け合い以外にも、二胡、アフリカの打楽器、バンジョーとの5重奏も楽しめた。久々の楽しい演奏会で実に満足!

それにしても若いということはいいなぁと実感した夜でした。
 2001.10.29 

アロハオエ / 小野リサ
秋だというのにハワイアン?
冬から春、夏の間、気分的には落ち込んでいましたが、HPの材料はヤマほどあり締め切りに追われる作家のごとく、これはいつか書かねばとだけは思っていました。そして秋になり精神的に立ち直ったのでまずこれを書くことにしたのです。(苦笑)

この夏は小野リサのアルバム「Lisa's Ono Bossa Hula Nova」をほとんど毎日聞いていました。ハワイアンをボサノバにアレンジしたおしゃれなアルバムです。古い友人である島根大のShimac先生のHPでも、この夏は偶然小野リサが話題になっていて、彼は昔も今もぼくに音楽的刺激を与えてくれています。Shimac先生、ありがとう。

昨年は久しぶりにウクレレがブームになり、あちこちでハワイアンが流れていました。そういえば中学生だった弟がウクレレを買ったのは32年ぐらい前だったような気がします。その教則本に載っていたのがアロハオエです。シンプルながら美しいメロディ、イチバン親しみやすい曲でした。今でもハワイというと何となく口ずさむ歌です。

小野リサの歌声は軽やかにさらりと流れ、耳を邪魔することなく心地よく響きます。絶叫調の歌手が多い時代に誠に希少価値といえます。
 2001.10.29 

珊瑚礁の彼方に / バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ
ハワイアンといえばまずこの曲というほど大好きな曲です。バッキー白片の甘いスチールギターの音色は、当時まだ見ぬあこがれのハワイをいろいろと想像させてくれました。ハワイアン好きになったのも彼の演奏のおかげです。やはりウクレレよりもスチールギターのほうがより雰囲気が出るような気がします。(笑い)

この曲はなぜか唐津にあった「シーサイドヘルスセンター」も思い出します。(爆)田舎の小さなリゾート施設でしたが毎年海水浴に行くのは楽しみでした。ただ、多忙な父を除いた家族で出かけていたのでその頃の記憶に父はいません。

思い出といえば、肺気腫で次第に体力を失っていく仕事中毒の父を、無理矢理休みを取らせ、湾岸戦争のさなか1991年1月ハワイへ連れて行きました。ワイキキの通りを颯爽と歩く姿はとても病人とは思えませんでした。オマケになんと海岸で水着姿まで披露してくれました。しかし、その1年後にはもうほんのわずかを歩くことも出来ないようになり、98年12月永久の眠りに就きました。この曲を聴くとハワイでの父の姿が目に浮かびます。
 2000.3.6 

禁じられた遊び / ナルシソ・イエペス
映画「禁じられた遊び」の主題曲として知られるこの曲はナルシソ・イエペスの名を世界に広めた有名なギター曲です。この曲によってクラシックギターを始めた人間は数知れずというところでしょう。ちょっと練習すればとりあえず弾けるので初心者のあこがれの曲でした。

ぼくもまた18歳の時にギターを始め、多くの人たちと同じように最初に弾いたのがこの曲で、1970年にひとり住まいしていた浪人時代のなつかしい想い出の曲です。当時イエペスはギター演奏のテクニックにすぐれ、巨匠セゴビアとはちょっと違った層のファンを数多く持つ人気ギタリストでした。(セゴビアの玄人うけに対し彼は幅広く一般うけしていた)

1993.10.12にホテル・リゾナーレ(小淵沢)で行われたコンサートは悲しい思い出です。聴衆の前に現れた老演奏家はやせ衰え、自力で歩くことさえむずかしそうな状態でした。いい演奏は気力と集中力を支える体力があって初めて行えるものです。この夜のイエペスにはその条件が欠けていました。そうなれば結果は明らかで、ぼくが経験した演奏会の中でも記憶がないほど悲惨な演奏会になってしまいました。

ギターは通常「左手で押さえた弦」を「右手で弾く」という動きを一致させて音を出します。その際左手で弦をちゃんと押さえていなければ美しい音は出ません。握力がなくなると音はパシャパシャとただの雑音になってしまいます。この夜のイエペスはまさにその状態でかつて技巧派といわれた面影はどこにもなく、「ひびの入った骨董品」になっていました。

あれほど優れた演奏家も次第に忍び寄る老いには逆らえませんでした。どんな素晴らしい演奏家もやがて衰えを自覚し引退を余儀なくされます。時の流れは何と残酷なのでしょう・・・・・
 1999.12.17 

煙が目にしみる / ザ・プラターズ

1950年代半ばから登場したザ・プラターズは幾度かのメンバーチェンジを経ながらもいつもと変わらぬ美しいハーモニーを聴かせてくれます。最大のヒット曲は1955年の「オンリー・ユー」でこの曲も名曲なのですが、ぼくはこの「煙が目にしみる」のほうが好きです。

ほとんど毎晩のように聴くこの歌は20年以上経っても色あせることはありません。それぞれのパートが自己主張しながらも見事な調和を見せてくれるこのグループはこの先も素晴らしい歌声を響かせ続けることでしょう。

偶然、1999.12.14に韮崎市文化ホールでザ・プラターズ・ライヴが行われました。前から2列目という好条件で聴くことができましたが、それ以上に彼らは聴衆を楽しませる術を心得ていて、よどむことなく流れるようなステージ構成、そしてリズミカルな曲には自然に手拍子が生まれるというステージと客席が一体になれる素晴らしいライヴで大満足しました。そうそう、この夜の最後の曲はアンコールに答えての「また逢う日まで」で、ステージと客席からの大合唱となって幕を閉じました。ひさしぶりに楽しいライヴでした。こういうのって日本人にはできないでしょうね。残念。
 1999.8.5 

エル・テンプル(ブレリアス) / パコ・デ・ルシア
パコ・デ・ルシアの存在を知ったのは1972年の春でした。
偶然点けた「11PM」の中継でまだ寒い夜桜の下で、来日した若き日のパコはギターを弾いていました。その夜はタイミングの悪いことに、雪が舞いそうな寒い日で普通の人なら絶対弾けない”指が凍えそうな夜”だったのです。

その数年後、パコのアルバムを買いました。そのアルバム「霊感」は名曲「即興のルンバ」を中心にパコの神業のような早弾き「チャルダッシュ」など、何度聞いても飽きない名曲ばかりです。

その中でも最も気に入っているのがブレリアの名曲「エル・テンプル」です。シギリアに魅せられて聞き始めたフラメンコギターですが、それがいつのまにかスペインの明るい陽射しを感じるようなアレグリアに移り、ルンバを楽しむようになり最後に落ち着いたのが、このリズム激しいブレリアです。

さて、パコの生演奏を聴いたのは90年5月23日の松本市民会館でした。地方在住者にはありがたいことにチケットは完売ではなく、当日会場で手に入りました。全席自由のチケットを手に入れて興奮しながらコンサートを楽しみました。もちろん会場ではパコの素晴らしい演奏に酔い、帰りの車の中でも余韻を楽しみながら帰ったのは言うまでもありません。
 1999.7.26 

学生時代  / ペギー葉山
青山学院の先輩、ぺギー葉山さんが歌う「学生時代」を高校の頃は無意識に歌っていました。(たぶんあこがれだったのでしょう)

それがなぜか、大学の頃はほとんど歌わなくなってしまいました。なにしろ”つたのからまるチャペル”は、いやでも毎日通る場所にあるし、”恋へのあこがれ”は、日常茶飯事で”はかなくやぶれて”いたし・・・(苦笑)

やはりタイトルにあるように「学生時代」という時期を意識するのは卒業してからのことだと思います。ふとしたときに思い浮かぶ友の顔、
鮮やかによみがえるなつかしい情景、そのひとつひとつが卒業後ン十年経った今、すべての原点になっているような気がします。

同じく先輩である作詞作曲の平岡精二さんに”よくぞこの名曲を作っていただいた!”といまさらながら感謝申し上げたい。(笑い)

最近はジャズアレンジしたMIDIで聞くことが多いのですが、これはこれでなかなかいい味が出ています。
 1999.5.6  

真珠採り  / アルフレッド・ハウゼ

高校3年を目前に控えた春休み、悪友に誘われてコンサートに行きました。大学のクラブのギターコンサートとだけ聞かされていたので、当然期待はしません。緞帳(どんちょう)があがり演奏が始まりました。そして何曲目かの演奏がコンチネンタルタンゴの名曲「真珠採り」でした。しかし不思議なことに、何曲も聞いたはずなのに印象に残っていたのはこの曲だけなのです。
冷静に考えてみれば、たぶんそれは視覚からくる印象が強烈だったからだと思っています。それでも「真珠採り」は名曲であることに違いありません。後に聞いたアルフレッド・ハウゼ楽団の演奏は心 のひだに染み込んでいくようで、いつ聞いても素敵です。

「真珠採り」はまずタンゴのリズムが刻まれ、徐々にメロディが流れてきます。暗転で始まったステージはバックに真っ青な海のイメージが広がりそれだけで感激します。目を閉じれば、 真珠を求めて女達が海へ潜っていく姿が目に浮かぶようでした。後に演出効果というのがどれほど演奏を助けるか(!?)のひとつの例として参考になりました。

運命というのは全く不思議なものですが、この2年後に入った大学のクラブが、この夜の演奏団体 「青山学院大学ギターアンサンブル」と気が付いたのはずいぶん後のことでした。
 1999.4.18 

リベルタンゴ  / ヨー・ヨーマ

学生時代、アルゼンチンタンゴは身近な音楽でした。それはアルゼンチンタンゴの名曲ラ・クンパルシータをオープニングテーマに使っていた音楽サークルにいたからで、今でもタンゴのリズムを聴くとステージを思い出します。

それから20数年が過ぎ、すっかり忘れていたタンゴへの愛着を思い出させてくれたのが突然テレビから流れ始めたピアソラの名曲「リベルタンゴ」でした。ウィスキーのCMに使われたこの曲はアルバム「プレイズ・ピアソラ」に収められ、この年大ヒットしヨー・ヨーマの代表的な作品ともなりました。

同時期発売された「ベストアルバム」にも収納され、チェロ大好きな人間にも喜びですね。これもまた酒を飲みながら聴くのにふさわしく、情熱的なリズムと旋律が心地よく響きます。
 1999.4.30 

噂の女  / 内山田洋とクールファイブ

正直言って、演歌は好きじゃありません(苦笑)
例外的に好きなのがクールファイブの「噂の女」と名曲「東京砂漠」です。
特に「噂の女」は浪人して東京でひとり暮らしを始め、代ゼミに通っていたその春、
代々木駅の近くにあった飲み屋でいつも流れていたのがこの歌でした。

周囲の同級生が次々と大学に合格しましたが、自身は挫折を味わい予備校に通うために
ひとり上京しました。若葉の頃、浪人仲間に誘われ酒を覚え、よく飲みに出かけたものです。
哀しい春と前川清の切ないヴォーカルがミョーにマッチしていて、何十年立っても春になると
この歌を思い出すのです。たぶん他の演歌と違い、抵抗なくこの歌が聴けるというのも、
「思春期」の複雑な想い出がいっぱい重なっているからだと思います。

不安と期待でいっぱいだったあの頃がこの歌を聴くと今もよみがえります。

 1999.3.28 

想い出のサンフランシスコ  / トニー・ベネット

1971年の初夏、ぼくは大学1年でした。クラスメートに誘われてアルバイトに行ったのが、当時大手町にあった「サンケイホール」でオペラグラスを貸し出すという仕事でした。”ヒマになったら聞いてていいよ”という友人の言葉に甘えて中へ入ることにしました。そこで歌われていたのはトニーベネットが歌う、名曲「想い出のサンフランシスコ」です。

しかし、予備知識なしで聞いた歌手が「これほどの歌い手」で、「素晴らしい歌」に出会えるとは期待していなかっただけに驚きです。甘い歌声、伸びがあり豊かな声量、すでに大歌手の風格がありました。誘ってくれた当の友人もトニー・ベネットがこんなすごい歌手だなんて知らなかったようです。アパートに帰った夜は興奮してなかなか眠れなかったことを覚えています。
偶然とはいえトニーベネットの「生の歌」に出会えた幸せというのは、その後のぼくにとって貴重な財産となりました。

さて、ようやくレコードを買うことができたのはこのコンサートから15年ほど後のことです。彼の歌を聞いていると「スタンダード・ナンバー」が長く歌い続けられるのは素晴らしい歌手によって歌われた「名曲」だからだということが実感できます。
 1999.3.26 

ワルツ・フォー・デビィ  / ビル・エヴァンス
10代の頃、いつかジャズのわかる大人になりたいと思っていました。そしてやっとめぐり逢ったのが「ジョー・パス」「ジョン・コルトレーン」「ビル・エヴァンス」でした。なかでもジャズピアノといえばビル・エヴァンスが一番好きというほど気に入っています。

リバーサイドから出たこのアルバムは最高傑作といわれる「ポートレイト・イン・ジャズ」「エクスプロレーションズ」とともにビル・エヴァンスの代表的なすぐれた作品です。スコット・ラファロ、ポール・モチアンとの完璧なトリオは長く続かなかっただけに惜しまれます。

さて、このアルバムはジャズクラブの雰囲気を出すためにスタジオに店を作って録音したといわれるだけに「客のざわめき」「グラスのふれあう音」など実に臨場感あふれる作品となっています。目を閉じてレコードを聴いていると、まるでライブの店にいるようです。

深夜、静かに酒を飲みながら聴くこの曲は、甘く切なくこころに響きます。孤独ひたっているときに聴く曲です。
 1999.3.14 

シャコンヌ  / アンドレス・セゴビア

J.S.Bach作曲のヴァイオリン変奏曲ですが、初めて聞いたのはセゴビア演奏のギター曲としてでした。ヴァイオリン演奏でもなかなか困難な曲をギターに編曲し、それを苦もなく演奏してみせるというセゴビアのすごさは感動ものです。

民族楽器でしかなかったギターに光を当て、クラシック演奏用の楽器として今日の地位を築くきっかけになった曲といっても言い過ぎではないでしょう。

さて、ぼくがセゴビアの演奏を聴いたのは80.7.21東京文化会館でした。当時86才という高齢になるセゴビアの演奏を期待するはずもなく、話の種という程度でしたが、始まればなんと!少しの衰えも感じさせずにすべての曲を若々しささえ感じるほどの力で演奏しきってしまいました。しかし残念ながらその年のプログラムの中に「シャコンヌ」はありませんでした。

それでもこの夜の聴衆は演奏中の「ざわめき」も「せきばらい」もなく、曲が終わるとまず「ふぅー」というため息が聞こえるほど緊張し、すべてのひとが演奏に集中していました。こんな素晴らしい演奏会は他には記憶にありません。
 1999.2.27 

ラ・ボエーム / シャルル・アズナヴール

中学2年になって「自分のお小遣い」で初めてレコードを買いました。幼いながらに一生懸命考えて選んだのが2曲入りの「ドーナッツ盤」ではなく、当時4曲入りだった「コンパクトアルバム盤」です。この頃すでにビートルズがはやっていました。にもかかわらず、選んだのはアズナヴール?美声ではないけれど、聴けばすぐわかる独特の声。歌唱力、説得力も抜群でひきつけられます。

当時の人気ラジオ番組「中村メイコのロストラブ」で深夜によく流れていたのが、このアルバムのタイトル「イザベル」。最初はこの曲を聴きたかったのですが、何度も聴いているうちに「ラ・ボエーム」のほうが好きになってしまいました。それから「想い出の瞳」「街角の瞳」もなかなか名曲です。そうして考えるとこの4曲入りはかなりお買い得だったかもしれません。

でも、最初からシャンソンが好きだったわけではなく、シャンソンに目覚めたのはこの1曲の影響ともいえます。懐かしい出会いの曲です。



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